めんおうブログ

主夫ライターの日々と、よりよく生きるためのちょっとしたコツなど。

「こんな大人」にはなりたくない。

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わたしが、大人、というものを意識したのは、中学生くらいの頃だったと思う。昔のころの自分を引き合いに出しながらガミガミとうるさく、否定ばかりする大人を見て、「こんな大人にはなりたくない」と思ったものだった。「近頃の若者は・・・」という言葉を聞くたびに、そんな風に思っていた。

  

「こんな大人」(=かっこ悪い大人)は、とにかく視野が狭く、自分と違うものを否定する。他から批判された時などは、噴出したように怒る。こんな印象があった。

 

 

 

わたしは最近、「こんな大人」になりかけているのではないか、と不安になることがある。

 

イラっとするきっかけがほとんど同じ理由だし、人から受けた批判に言い訳じみた感情を抱くことも多くなったような気がする。もちろんそれらのほとんどは、口にしたり行動に移したりしないが、どうもそんな感じがするのである。

 

どうしたものだろうか。

 

もしかしたら、このくらいの不安や感情は、ほとんどの人が少なからず抱くものかもしれないが、放っておきたくもない。この不安に気づき、具体的に手を施さなかった人が30代以降、数年~数十年をかけて「こんな大人」になり下がるのかもしれないとも思うからだ。

 

であれば、ここで手を施したいと思うのは自然なことだろう。

 

 

 

何をすればいいのか。正直、自信のある答えは、今のところない。「幅広い視野」をもてば「こんな大人」にならずに済むと思って、いろいろ探ってはいる。

 

情報収集のためにTwitterを始めたし、いろいろなブログを読むようなった。

 

ただ、始めてみて、とても有益な面がある一方で、その弱点にも気づいた。

 

Twitterは、基本的にフォローしている人のツイートしか掲示されない。フォローした段階で自分の好みが反映されることを考えれば、Twitterを利用すれば利用するほど考え方が偏る、と言えるかもしれない。

 

ブログも、無意識のうちに自分の興味のある記事に目が行くし、わたしの記事を読んでいただいた方やコメントを寄せていただいた方は、少なからず同じような興味をお持ちのはずである。

 

また、仕事や家庭の人間関係というのは、ほとんど固定されている。

 

結局、人は同じような興味を持つ人で固まっていくものなのだろうか。

 

 

 

こう考えていくと、広い視野というもの自体、怪しくなってくる。

 

そもそも広い視野とは何か。

広い視野というものは、本当に必要なのか。

「広い視野」を持っていれば、「こんな大人」にならずに済むということ自体、正しかったのか。

 

「こんな大人」は、自分とは違うものを受け入れず、向けられた批判に対して怒っていたことを踏まえれば、やはりそうならないためには、自分とは違うものを受け入れるだけの広い視野(知的忍耐力も併せて必要だろう)が必要なのだろう。

 

今持っている視野を広げるには、「新しい発見」しかない。このためには、今付き合いのある人、モノとの関係の深堀や関係する人、モノを広げるしかないのではないだろうか。

 

思えば、仕事が変わり、仕事で付き合う人は大きく変わったものの、そこで接する人の数は減り、むしろ幅は狭くなったとも言える。Twitterやブログをしている分、読書や映画鑑賞などの機会は大きく減った。

 

時間や集中力の使い方が間違っているのか。それとも、今接している人やモノをより大切にすることに集中した方がいいのだろうか。

 

ピーマンを食べたときに、「ピーマン嫌い」ではなくて、「苦い。こういう味もあるんだな」と言える大人になりたいだけだ。

 

目標はわかっていながら、そのための努力もしているつもりだが、時折感じる自分の硬くなさが許せない。どうすればいいのか、答えが出ていない。しかし、時の流れや硬くなさを増していく自分を見ていたくない。

 

こういったことを考えながら、「こんな大人」にならない努力を続けることが、そうならないための一番の、唯一の道ならなんの心配もいらないのだが。

 

 

 

どうも考えがまとまらない。こんなことは久しぶりだ。