もう「若者」ではないわたしが、若者を見て思ったこと。
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仕事の帰り、いつも通り、自宅の最寄り駅まで行く終電に乗った。
24時を少し回った頃、東京郊外を通るこの電車の中には、乗客がまばらにいる。いすに座り、いつも見る顔もいくつかあるな、と思いながら、ポケットからスマホを取り出そうとしていると、向かいの席の、大学生くらいのかわいらしい女性が、わたしの左側に立っている男性(同じく大学生だと思われる若者)にアイコンタクトを送っているのが見えた。
アイコンタクト、と言っても、特別な意味はなく、会話の代わり以上の意味はないものだった。異性に媚びるいやらしさは全くなく、にこにこしながら、隣の座席を指さし、「立ってないで隣に座りなよぉ」とジェスチャーしていた。
だれも迷惑しないから声に出せばいいのにな、と思ったが、夜遅く、乗客は疲れている人が多い、ということに気を使ったのだろうか。ますます健気で好感のもてる子だな、と感心した。
彼は、促された通り、彼女の横に座った。座る、というより、身を投げ出した先に椅子があった、という感じで動作は荒かった。顔は赤く、眉間にしわを寄せて気分悪そうにしていた。若者特有の「飲みすぎ」というやつだろう(わたしにも経験がある)。かなり酔っていたようだが、もともとの顔つき、表情が柔らかめなのか、とても優しそうな男の子で、アイコンタクトを送っていた彼女とお似合いじゃん、と思った(余計なお世話だが)。
彼が隣に座ると、彼女は、相変わらずにこにこしながら小声で「どこ行ってきたの?」と聞く。彼は「新宿。飲みすぎた。。。。昨日合宿から帰って来たばっかりで、また明日から・・・」と答える。
これ以上聞き耳を立てたり、想像したりするのは、彼らの世界に土足で踏み入るような、マナー違反なような気がして、聞くのをやめた。
酒の飲み方を知らない、仕事以外のことから得られるものが多くある、まだ知らない世界がたくさんある・・・彼らの持つすべてに、若いっていいな、と中年を迎えた大人ならだれもが抱く気持ちを感じた。
このようなあこがれの根本は、その無限大の可能性にあるのだろう。これまで学んだことをもとにして、自分が納得しさえすれば、何でもできる、何にでもなれる、何をしてもいい。目に映るものすべてに新たな発見があり、そこから学ぶことができる。この無限大の可能性は、選んだ選択肢が期待したほど光り輝いてはくれない、ということを知ってしまった大人にとっては、いつでも魅力的に映るのだ。
彼らを見ていて、わたしのイメージは、過去の自分に向かった。
振り返ってみれば、わたしが彼らくらいの年齢のころ、大人に対してどのような印象を持っていただろうか。大人っていいな、とあこがれを抱いていたのではないだろうか。
大人は、酸いも甘いも経験していて何でも知っている。自分の知らない世界を知っていて、自分の世界を持っていて、なんかかっこいい。こんな印象を持っていたはずである。
大人が、若者のもつ無限の可能性をどんなにうらやましく思っているかなど、気にも留めていなかったが。失ってみて初めて気づく、とよく言うが、若さを失いつつあるわたしにも当てはまることなようだ。
過去の自分が抱いていた気持ちを手繰り寄せたところで、また考えた。自分は、若者の無限の可能性をうらやましく思う一方で、若かったころにあこがれていた大人になれているだろうか、と。わたしは、昔あこがれていた、若者の知らない知恵や、世界を語れるだけの懐を備えているだろうか。
急に砂の上に立たされたように自信がなくなり、不安になる。
若者の知らない、大人だけが語れる世界。それは、大切にしている考え方、つまり価値観や信念ではないだろうか。これを持っている人は、背筋がピンと伸び、生き方に筋が通り、深みがあるように見える。これこそ、わたしがあこがれた大人だったんだ。
若かったころは、必死に頑張って勉強しているのは若者だけだ、なんて生意気に思っていたけれど、どうやら大人は大人で大変なようだ。やっぱり、若かったころに抱いていたように、大人ってかっこいい、と思われるような大人になりたい。
若者があこがれるような大人であることが、大人の責任であるような気がする。世代間でのこの繰り返しこそが、豊かな社会を作ることにつながるのではないだろうか。大人が若さをうらやましく思いながら若者を見るように、若者は大人が持つ世界にあこがれを持って見ているのだから 。