めんおうブログ

主夫ライターの日々と、よりよく生きるためのちょっとしたコツなど。

子どもには自分が与えられてきたもの以上を与えてあげたい、という気持ち。

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 どの家庭でもしているように、我が家でも節約をしている。

 

同じ価値のあるものなら、できるだけ安く買うようにしているし、必要のないものは買わないようにしている。月の終わりには家計簿をつけて、いくら赤字か、黒字か、という結果に一喜一憂し、翌月はどの支出をどのくらい少なくしよう、と妻と話し合ってもいる。

 

ただ、もうすぐ4歳と2歳になる子どもは、親が思っている以上に親のことをよく見ているし、理解していて記憶に残しているものだと思う。いつ、だれが、どう言っていた、というようなことを、思い出したかのように言うことがあるからだ。特に4歳の息子の方は、親のことを細かく見ていて、空気を読むこともできてきているようだ。

 

だから、節約しているとは言え、わたしなりのルールが二つある。

 

それは、子どもの前で「お金がない」という発言をしないことと、自分が子どものころにしてもらったことで感動したことについては、それ以上に体験させてあげることである。

 

 

 

両方とも、なかなか難しくいつもできているわけでない。また、両方とも子どもに対する親の在り方に関することで、自分も親(大人)になったな、なんて思う。

 

 

 

子供の前での「お金がない」という発言は、子どもの自信を失わせる。子どもは、自分が親に迷惑をかけている、うちって大丈夫なのかな、と漠然とした不安を抱く。実際、わたしがそうだった。わたしの親がお金がない、と発言していたかどうかはあまり記憶にないが、お金に困っているのではないか、と子どもながらに心配していたことは覚えている。

 

だから、友人の家に遊びに行っても、なんとなく引け目を感じていたし、ほしいものがあっても本当のことを言うことができなかった。さらによくなかったのは、小学生のころ学校などで、親の仕事の話になった時などに、引け目を感じながらも、そんなことはないようにしていたことである。

 

「アソビ」の中でウソをつくのはどうってことないが、自分にウソをついているような、なんとも言えない後味の悪さがあったのを覚えている。自分にウソをつくと、そういう感覚に慣れてしまって、どんどんウソをつくようになる。そして、どんどん自分のことが嫌いになるのではないだろうか。

 

これくらいのことは、子どもとしても必要な苦労かもしれないし、家や親のことを思いやることも子どもとして必要なのかもしれない。わたしはわたし自身の子どもの時の感覚や記憶しかないから、わからない。

 

ただ、確実なのは、「思いやりの気持ち」以上に、「自信のなさ」や「自分にウソをついている後味の悪さ」が記憶に残っていることだ。親や大人の気持ちは、子どもが大人になってからでも十分知ることができるし、親が半ば強がり的に(貧乏でも)生活には何も困ってない、と振舞うこともできるはずだ。であれば、子どもに必要以上に心配をかける必要はないわけだ。

 

わたしは、子どもに後味の悪さを経験させたくないし、自信を失ってほしくない。

 

 

 

また、わたしが子どものころにしてもらったことで感動したことについては、それ以上に体験させてあげたい、とも思っている。

 

例えば、大人にとっての100円などは、なくしても気づかないくらいの金額だが、子どもにとっては、時に大金になる。

 

わたしが小さい頃、埼玉で一人暮らしをしている祖母が遊びに来てくれた時には駅の近くのイトーヨーカドーに行くのがお決まりだった。そして、そのゲームコーナーでいつも決まって500円をもらい、自由に遊ばせてもらっていたことが、その時の雰囲気そのままに記憶に残っている。

 

祖母が遊びに来てくれただけでウキウキし、いつイトーヨーカドーに行くか、を決める。その日までずっとワクワクする。ヨーカドーでもいつも手にしない500円という大金を握りしめてゲームコーナーに胸を躍らせて駆ける。ゲームで遊び終わってからもその楽しかった感じはしばらく続いた。不思議とゲームで遊んでいる最中よりも、その前後の方が楽しく、胸躍る記憶として残っている。

 

小さな金額で、生涯記憶に残る体験をさせてあげられるなら、最高じゃないか、というわけである。わたしは、このような胸躍る体験や記憶の積み重ねが、情緒の豊かさや、やさしさにつながると信じている。(もちろんそればっかりではないでしょうけどね!!)

 

 

 

節約する中においても、わたしは、ここまで書いてきたような二つのルールを守るようにしている。

 

きっと、子どもは鋭いし、親の苦労に気づきながらも気づかないふりをするものだと思う。まだ3歳だし、今はそこまでわからないとしても、幼稚園の年長や小学生になるころにはいろいろなことを感じ取り、それをもとに自分なりに考え、大人になってまで続いていく性格を作っていくものなのだろうと思う。

 

だから、親としての苦労は見せたくない。親の苦労を見せないことが、親としての子ども孝行なのではないだろうか。子どもが親孝行についていつか考えるように、親も子ども孝行について考えるものだったようだ。