めんおうブログ

主夫ライターの日々と、よりよく生きるためのちょっとしたコツなど。

五感を使って、徹底的にスタバを味わった結果を文章にしたら、7,000文字を超えた。

スポンサーリンク

前書き

今日は仕事が休みで、しかも、妻が子供を連れてママ友と遊ぶ、ということで日中に完全フリータイムをもらうができた。某氏関係の記事への反省を神様が見ていてくださったのだろうか。

 

仕事も家庭も忘れて完全にフリーな時間を過ごすのは、どのくらいぶりであろうか。

 

思い返してみれば、6年前結婚して第一子、第二子と子供ができ、子育て、親族との別れを経験し、仕事での苦労、転勤と転職を経て・・・

 

盛りだくさん過ぎて、この6年間は、日中一人で完全に自由に過ごす時間などなかったかもしれない。少なくとも仕事からも家庭からも離れて、頭の中をからっぽにできる時間はなかったように思う。仕事への往復の通勤時間くらいは一人になれるわたしよりも、家事、子育てのためにもっと一人になる時間がない妻にも近々、完全フリータイムをプレゼントしてあげようとも思った。一人きりの完全フリータイムがあるというだけで、何をしようか、何をしてもいいんだ、とワクワクして来る。こんな気持ちは本当に久しぶりで、そこにはストレスの「ス」の字もない。

 

 

 

さて、その完全フリータイムに何をしようか、ということであるが、少し前から気になっていたお店があったことがすぐに頭に浮かんだ。それは、何も特別なお店でなく、通勤経路中にある、駅の構内の「スタバ」である。通勤の際に必ず目にするが、一度も入ったことがなかった。公務員から民間企業に転職すれば、朝のスタバで新聞を読みながらコーヒーとドーナツをいただいて・・・などと、勝手に妄想したこともあったが、時間にもお金にもそんな余裕はなかった。いつのころからか、外国人やできるビジネスマンは、朝みんなスタバで過ごしてから出勤、というようなイメージがあったが、そんな夢は実現しなかった。むしろ、朝スタバで過ごす時間やお金の余裕があるなら、朝起きたばかりのラフな格好で、好きな時間にだらだらパソコンでも開きながらインスタントコーヒーを飲みたい。安いチョコレートならいくらでもある。所帯じみた30過ぎのラーメン店従業員は、これで十分なのである。それでも通勤経路中の某駅構内のスタバの前を通り過ぎるときは、5割以上の確率で、「大学時代には毎週末必ず行ってたな」とその空気感を思い返し、思い出に浸っている。

 

大学時代にはスタバに本当によく行ったものだ。その思い出に登場するのはいつも、同じ大学で仲のいい部活の友人か、当時彼女だった今の妻だ。スタバの思い出の半分くらいは、一人で行った時のことだ。スタバでしたことといえば、読書、たわいもない会話、頭の中をからっぽにしてスタバの空気を感じること、手帳を片手に将来の予定を立てること・・・などなど。スターバックスは、コーヒーを売っているのではない。職場でもなく家庭でもない「第三の場所」を売っているのだ、とよく言うが、その通りだと思う。わたしのスタバの思い出は、コーヒーがおいしかった、ということでなく、あの空気感、もうあの頃には戻れないことなどわかっていながら「あの頃はよかったな」とつい言ってしまう懐かしさなのである。コーヒーは、このような思い出作りの手伝いをしているに過ぎない。

 

そんな思い出深いスタバにも、最近めっきり行かなくなった。結婚当初は、一年に何度かは行っていたかもしれないが、子供ができてからのここ六年間では本当に一、二回しか行っていないと思う。だから、せっかくの完全フリータイムには、日頃の通勤で気になりまくっていて、いつか行こうと決めていた思い出がいっぱいのスタバに行って、思う存分スタバの空気をを味わいたい、と思うに至ったのである。今日がスタバ収めになってもいい、とあきらめがつくくらい味わってやるぜ、というわけである。ただ、一日の完全フリータイムとは言っても、厳密に言えばたった数時間である。それでも、しっかりとスタバを味わい、感じたことを記事にするには十分である。もうウォーミングアップはできている。毎日の通勤で、昔行ったスタバを思い出し、その空気感をわずかながらではあるが、味わっているのだから。

 

では、短時間で徹底的にスタバを味わうためにはどうすればよいか。そのためには、五感をフル活用するしかない。コーヒーの味だけでもだめ、香りだけでもだめ。五感をフル活用するのである。

 

この記事では、わずかな時間ではあったが、五感を使って味わったスタバのすべてを記録したいと思う。この記事を読めばもうスタバに行く必要がなくなるか、スタバに行きたくてしょうがなくなるかのどちらかであろう。わたしはこの記事を書き上げてからは、もしスタバに行きたくなることがあれば、この記事を読みながら時に目をつぶってコーヒーを飲み、物思いに浸るつもりである。そこが家だろうが、近所のコンビニの駐車場だろうが、スタバの空気感を味わうために。

f:id:mennou:20180219224449j:plain

(写真はイメージです)

五感を使って徹底的にスタバを味わった結果

そもそも五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことである。五感を使って徹底的にスタバを味わうとは、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体で感じること、舌で味わうもの、鼻でにおうもの、すべてにそれぞれ神経を研ぎ澄ませて繊細に味わう、という空前絶後の試みである。

 

スタバに行く、と決めて家を出てからわたしの頭にずっとあったのは、昔スタバに行っていた時のあたたかな記憶と、通勤経路中に見ていたスタバの外装、そして、入り口にある緑地に白のあのロゴである。早くあの、なつかしい空気に触れたい、あたたかく香ばしい空気の中でゆっくりと自分だけの時間を過ごしたい。。。

 

それでも電車で30分も揺られれば、あたたかい日差しと、一定リズムの電車の揺れ、さらには何をしても誰からもとがめられない、という心のゆとりでうとうとしてくる。本を読もうと手に取ったはいいが、数ページ読んだだけで、移動時間の半分以上を睡眠に費やした。普段なら眠ってしまったと、多少の後悔もあろうが、今日くらいはいいだろう。ゆっくりとした時間を楽しむと決めたのだ。

 

人間とは不思議なもので、電車を降りる予定の駅のに到着する直前に気持ちよく目が覚めた。全く眠くなく、心も体も五感でスタバを受け止める準備ができていた。

 

満を持して電車を降り、ホームから続く上りエスカレーターを上がると、緑地に白のあのロゴが待ち受けていた。このロゴ、どういう意味だっけな?人魚?と不確かな記憶を探りつつ、ウキウキした気持ちで入り口に向かう。気持ちの高ぶりを感じながら、わかんないやっと心の中でつぶやいて、ロゴのの意味は?という問いに対して、わからないという一応の答えを出し、いつもよりも若干早くなった足取りを緩めることもなく店内に入った。自動ドアが開き店内に入ると、コーヒーの苦みを含んで香ばしく、また、クリームの甘みがあり、ほどよく湿気を含んだ、あたたかな空気に包まれる。それと同時に若い女性店員の、いらっしゃいませぇ、という高めの口調のやわらかな声を浴びる。

 

30名くらいが入りそうな店内の7割くらいが埋まっていることを確認しつつ、6人掛けテーブルの隅にリュックをおろして席を確保してからレジカウンターに向かう。

 

レジカウンターでは、あたたかい空気の中で、もう一度いらっしゃいませぇ、と笑顔で言われる。この空気と「いらっしゃいませぇ」は、スタバ名物と言ってもいいだろう。わたしは無意識のうちにこれを求めていたようだ。なんとも落ち着く空気感ではないか。これが「第三の場所」への入り口である。

 

ホットのドリップコーヒーをショートで注文してお金を払うと、その場ですぐに紙コップに入れて提供された。コーヒー受け取りの際、コーヒー豆の産地について一言で説明があったようだが、それがあまりにも不意打ちで、女性店員の声がやわらかすぎて、しかも、わたし自身コーヒー豆の産地にさほどの興味もなかったので、全く聞き取れなかった。わたしはそこまで「意識高い系」ではない。ただ、うなづくくらいは、店員さんの仕事に対する最低限のマナーであるような気がしたので、説明に対して、わかったよ、という意味の会釈を返しつつ、右手にコーヒーの温かさを感じながら席に向かう。

 

席に着くと、まだ熱くてすすれないコーヒーを6人掛けの広い机の自分のスペースの右手に置く。正面にはパソコンを、左手にはスマホと、読むかもしれない小説を置いた。これで脚を組んで眉間にしわを寄せれば、完璧な「意識高い系」が完成する。どこから誰が見ても「意識高い系」である。ラフな格好で平日のカフェでパソコンを開いて仕事、というのはビジネスパーソン永遠のあこがれ、夢である。きっと周りは、おれのことを「デキるノマドワーカー」だって思ってるだろうな、と妄想しつつ心の中でニヤニヤしながら少し周りを見る(こういうこと考えているやつ(←自分)は絶対にデキるノマドワーカーには見えなかったことだろう)。

 

店内は、若い女性7割、中年から老人の男女2割、男性1割といった客層である。それぞれが好きなことをしている。読書、会話、パソコン、仕事、勉強、うたた寝・・・今の時間を何かに集中することに使う人、友人や恋人などと一緒の空気を楽しむ人、将来に向けて今を過ごす人・・・同じ空間にいるが、だれからも咎められることなく、それぞれが各々の過ごし方を許された場所、それが「職場でも家庭でもない第三の場所」なのだろうか。

 

周りを見てから、視線を自分の正面に開いたパソコンに戻してから、何も考えることなく、香ばしくも甘さのある空気を胸いっぱいに吸い込みながら天井を仰ぎつつ、背もたれに体を預けて伸びをする。日頃の立ち仕事で筋肉の張った背中が気持ちいいくらいにストレッチされる。ここは完全に最高の第三の場所だわぁ、と高校生レベルの感想を抱きながら、今度は周りの音に耳を澄ませる。隣との会話を邪魔しない程度のほどよい音量で、やさしめであたたかみのあるジャズが流れていた。さらに耳を澄ますと、ジャズと同時に店員さんの声、わたし以外の複数のお客さんの声、レジからの小銭の音、近くの誰かがキーボードをたたく音、コーヒー豆を挽く音、ミキサーの音など、ここに書ききれない様々な音があることに気づいた。ジャズだけでなく、その他の無数の音も「第三の場所」を作るのに欠かせない存在なのだろう。この音があってこそのスタバなのである。音は、聴こうとしなくとも自然に耳に入ってきて、無意識のうちに心を落ち着けてくれる。

 

音を楽しんだ後は、机と椅子、そして壁などを味わう。わたしの席の机と椅子は、万人にちょうど良い高さ、形であるのではないだろうかと思うくらい背の高さに差のあるお客さんが座っている。平均よりもかなり背の高いわたしも、特に違和感を感じることなくパソコン作業や、読書ができるではないか。どうしてこのように万人にちょうどいいサイズ、形が設計可能なのだろうか、と思いつつ、机や椅子に触れている体の部位に神経を研ぎ澄ませる。すると、お尻、腿裏、腕、手のひらに硬め、木製の机と椅子を感じた。硬いはずなのになぜか座り心地はわるくない。また、机といすの木目調は、目に優しい。木の温かみを感じる手触りもちょうどよい。クリーム色の店内の壁、オレンジがかった薄暗いライトとの相性も良い。壁にはコーヒー豆の産地をイメージした絵とアルファベットであしらわれた絵が掛けられている。絵の色調もすべて褐色がベースになっており、すべて、お客さんが気持ちよく過ごせるための空間づくりのための工夫が施されている。

 

普通はやらない徹底的な味わいの視覚、聴覚、嗅覚、触覚編の大部分を終え、実はコーヒーは、五感のうちの一つに過ぎないんだな、と意味不明な感想を抱きつつ、ちょうどよく冷めてきただろうコーヒーを手にする。紙コップには、熱いコーヒーの保温効果を高めつつも、飲みにくいことのないような工夫が施された蓋と、手に持っても熱すぎないようなカバーがついており、お客さんへのやさしさを徹底したお店側の努力が感じられる。紙コップの風貌から色までのすべてが、その空間に違和感なく、しっくりと収まる。そして、おいしいコーヒー入ってますよ、と穏やかに語ってくる。わたしにはアツアツよりも少し冷めたくらいがちょうどいい。手からも伝わって来た通り、紙コップを口に当てて傾けると、ちょうどいい温度になったあたたかいコーヒーが口に注がれる。苦み、酸味、香ばしさを同時に味わったが、スタバのコーヒーは、香ばしさがとても強く、味の7割を占めるといつも思うが、今日もその通りだった。強めの香ばしさが鼻を抜けるのが心地よい。いつもおいしく、特徴的な味は、第三の場所で好きなことをするお供に最適である。

 

ここまでスタバを味わったら、あとはこの六人掛けの席で音を楽しみながら、そしてコーヒーを口にしながら、また、時には伸びをしながら記事を書くのみである。机の左手に置いた小説とスマホはもう使わないだろうが、それで構わない。好きなことを、お気に入りの場所で誰にも、何にも邪魔されずに集中してできるのは最高に心地いい。わたしは、そう思いながら記事の作成を始めた。

 

記事の作成中、何かに気がそがれることなく、一気に打ち込むことができた。ただ、横と斜め前の席で、若い女性が食べているケーキを見て、いいなぁ、おれも食べようかな、と迷ったことはあったが。。。結局、記事作成中に席を立って注文しに行く手間のめんどくささの方が勝ったので、注文することなく記事作成に集中できた。

 

好きなことをするには最高の空間が用意された、第三の場所での集中力も無限ではないのだろうか、わたしの席の周りのお客さんの出入りが激しくなったような気がして作業を中断し、パソコンの画面から顔を上げて周りを見た。また、それと同時にすぐ左側の窓の外でそれまでいなかった多くの人が足早に歩いているのにも気づいた。時計を見ると17時になろうとしている。そう、ここは駅の構内であり、多くの人が帰宅する時間になっていたのである。窓の外のすぐ近くには駅の改札があり、これから帰宅する人が多くなってきたのである。多くの人の帰宅の足音と一緒に、わたしの第三の場所にも現実が入り込んできた。

 

もう記事の大半を書き終えたことだし、第三の場所での自分だけの時間を終わりにしよう。あとは、下書きを保存し、紙コップとパソコンなど、机に出したものを片付け、席を立って店から出るのみだ。ここから先の記事の作成は、しっかりと記憶に残し、家に帰ってから続けることにして、最後にもう一度スタバの空気を胸いっぱいに吸って帰ろう。来店当初に席に着いたときと同じように深呼吸と伸びをすると、第三の場所の空気は変わらずにそこにあった。やっぱりスタバはいいな、と思いながら席を立つ。

 

自分が使った机の上の片づけは、第三の場所から現実の切り替え作業である。ずっとここにいたい、この時間が続けばいいのに、という気持ちを、小説やスマホと一緒にしまう。しまいきれなかった気持ちは、紙コップと一緒にダストボックスへ、ポイである。しまいきれなかった気持ちと紙コップがしっかりとダストボックスに入ったことを確認して、出口に向かう。自動ドアが開き、店の外に出たが、思う存分味わえたかどうかを最後に確認したくなって振り返った。やさしいライトの明かりに照らされたあたたかな空気とこれから第三の場所に行くお客さん、第三の場所で自分の時間を楽しむお客さん、お客さんを迎える店員さんがそこにはあった。一方、店の外に一歩出ると、そこにはスタバのあたたかな空気も、コーヒーの香ばしく、甘い香りもなかった。ただ、2月の夜の冷たい空気があるだけだった。腕時計に目を落として17時を過ぎていることを確認してからもう一度店内を見る。店内は何も変わっていない。自分が思う存分スタバを味わえたかどうかはもうどうでもよくなっていた。そこにスタバがあって、それぞれのお客さんの第三の場所と、それを提供する店員さんがいればそれでよくなっていた。

 

よし、もう帰ろう、とつぶやいて下りのエスカレーターでホームに向かった。

まとめ

正直、記事を書きながら、自分でも途中で何のためにやっているのかわからなくなったときもあったくらいの異常な行動の記録が出来上がった。もう、この記事を読みながらコーヒーを飲めばそこはスタバに早変わり、ということに・・・ならないか。。。

 

 

 

これまで数えきれないくらい行ったスタバを今日ほど味わった日はなかっただろう。全神経を研ぎ澄ませて細かく感じると、たった300円のコーヒーでは得られないものを感じることができる。この記録は、ネット上はもちろんであるが、わたしの記憶に一生残るだろう。

 

わたしは今日、スタバに数時間にさせてもらったわけであるが、スタバに限らず、思い出の土地や好きなところ、こと、というものをみなさんお持ちではないだろうか。懐かしい思い出の場所、モノ、とは、過去の自分と今の自分を将来の自分へとつなぐ手伝いをしてくれるものだと気づくことができた。今よりずっと若かったころの思い出のたくさん詰まったスタバに行くことで、昔の感覚、気持ちを思い出し、今と照らし合わせたり、将来を想像したりすることができたからだ。 

 

完全なフリータイム、そして、思い出の場所、モノとの触れ合い。たまにはいいものである。