ブログは生もの。そこにこそブログのおもしろさがある
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先日、こんなツイートを見て気になった。↓
音楽の価値提供量がエゲつない。
— るってぃ/プロ無職 (@rutty07z) 2018年4月14日
聴くだけで当時のことや、どんな気持ちだったか、誰といたかまで鮮明に思い出せる。
ブログ記事は1日10本読んでるけど年間通してはっきり思い出せる記事は1〜2本。
記憶の定着率でいうと
音楽>動画>本>ブログ
もちろんハードルの高さも比例して上がるんだけど
要約する必要もないくらいわかりやすく、核心を突くツイートだと思った。確かにその通りだと納得してしまったが、ブログ勢の一人として、ブログの価値がないとは思いたくない。
ツイート主のるってぃさんは、「ブログの価値がない」とまでは言っていない。ただ、ブログ以外のSNSとの比較などに前から興味があったこともあり、本当にブログの記憶への定着率が低いのかということと、ブログの価値について考えてみた。
なお、上のツイートは、音楽、動画、本、ブログの発信側ではなく、受信側としての観点のものなので、本記事についてもその観点で書いていく。
「分母」によって、「定着率」が大きく変わってくる
わたしは、必ずしも記憶への定着率が低いとは言えないと思っている。それは、分母によって「率」が異なるからだ。
音楽とブログを比較してみるとわかりやすい。
聴こうと思って聴く音楽の数はとても少ないのではないだろうか。わたしの場合、年間通して、意識してしっかり聴く音楽は20曲いかないくらいだと思う。そしてこの8割程度が印象に残る。
しかし、一歩家の外へ出れば音楽が聴こえない場所はなく、数えきれないほどの音楽を耳にすることになる。音楽とブログの記憶への定着率を比較する上で、しっかりと聴いた音楽を分母にとるか、BGMや雑音的に耳に入ったものまで分母にとるかで「率」は大きく変わってくる。
一方、ブログは、(はてなの場合)だれかの読者登録をしてすべての記事を読めば、年間通して100前後の記事を読むことにはなるだろう。その中で、本当に印象に残っているものは確かに数少ないかもしれない。
しかし、ここで、音楽とブログを比較するときに、音楽の分母をたまたま耳に入ったものまで入れた場合、ブログの方が「率」は高くなるのではないだろうか。
また、単純に比較できない難しさもあることを見逃してはならない。
たまたま耳に入った音楽は、無意識的に入っているので、記憶に残っておらず、そもそも比較するための「分母」になり得ないかもしれないのである。一方で、ブログの場合は意識的に記憶に残そうとするものであり、ある程度正確な「分母」となるため、「率」を考えると、どうしても音楽より数値的に低めに出るということである。
ブログの記憶への定着率が低いかどうかを考える上で、「分母」によってその「定着率」が大きく変わることを言っておきたい。
ブログは生ものであり、そこにこそブログのおもしろさがある
このめんおうブログは、雑記型に区分されるようなので、その観点で考えたことを書きたい。
わたしは、ブログは記憶への定着率、という意味では確かに低いこともあるかもしれないが、それ以上に、「空気のような存在」としての価値の存在の意義が大きいと思う。
日頃吸っている空気を、おいしいとは思わないだろう。
日頃食べているお米を、最高においしいとは思わないだろう。
日頃座っている椅子を、座り心地が最高だとは思わないだろう。
日頃、当たり前のようにしていることは、日常生活の一部となって、特に大きな印象としては残りにくくなるのではないだろうか。
この記事を読んでいただいている方は、何かを調べるために検索して訪問されるよりも、定期的に読みに来ていただくことの方が多いだろうと思う。
わたしは、自らの経験を通して感じたことや学んだことを発信して、自分のためにも、読み手であるみなさんのためにもなれば一番いいと思って記事を書いている。
しかし、それと同時に「すべての記事が読み手の印象に残らなくても、いつもそばにおいていただいて、たまたま読んでいただいたものや、そのいくつかでも心に響くことがあればいい」とも思っている。
また、ブログは生ものである。投稿したらすぐに読んでいただく方がいい。なぜなら、わたしのような書き手の場合、日々、その考え方が変わっていくからだ。
いつもそばにおいていただく空気のような存在のブログであれば、それは生ものであって、日々、考え方が変わっていくところにこそ、おもしろさ(価値)があるのではないだろうか。書き手と読み手の距離が近く、書き手の主張に共感し、時には反論し合える関係性、というのも魅力的だと思う。
このような価値は、ブログにしかないものだろう。
まとめ
結局、ブログの記憶への定着率は、低いとも言えるし、言えないかもしれない。という玉虫色の結論になってしまった。
ただ、一番言いたかったことは、ブログの記憶への定着率が低かったとしても、ブログならではのすばらしい特徴があるということだ。
わたしは、今後も「記憶への定着率」を大切にしつつも、それよりずっと貴重なブログならではの「書き手と読み手との関係性」を築いていきたいと思っている。書き手としても、読み手としても。