試験に落ちた
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先日、店長試験があった。
少し前から7月上旬にあると記事に投稿してきた通りだが、結果は不合格だった。
今の気持ちは、悔しいけれど、それよりも自分に足りないところがわかった清々しさの方が大きい。
そんなことを言っているから落ちるんだ、そんなこと言ってる間は受からないよ、なんて声も聞こえてきそうだけれど、これが本当の気持ちなんだからしょうがない。
受験者は約20人。
試験が始まるまで控室で待機していたが、この人、オーラ違うな。この人はバリバリやる気出してるけど、そんなでもなさそうだな。
初めて会ういろいろな受験者を見て、感じるところがあったけれど、合否の結果を見ると、なぜかわたしの予感はほとんど当たっていた。
きっとわたしも、周りから見たら、それほどでもなさそうな人グループの一人だったのだろう。
試験は午前中から夜にかけて行われた(ほとんど面接のための待ち時間だったけど)。
ペーパー試験は、これまで、それ以上に大変な思いをして勉強してきた経験もあって、問題なくクリアした(結果、ペーパーはトップクラスだったらしい)。
午後になり、空気が張り詰める。
午前中から一緒にいるので、受験者はそれぞれ顔見知りになり、控室の各所ではそれぞれ談笑する者、スマホをいじる者、読書する者、面接の練習する者などがいたが、みな、面接試験を前に心穏やかではなかった。
面接試験は、資料等の持ち込みはなし。
約5分間で、店長志望動機や目指す店舗像などについて発表したのち、質疑応答という流れだ。
わたしは、自分の出番が来るまで3時間あったので、残り1時間になるまでは本を読んで時間をつぶすことにした。
受験者が控室を出ては、試験を終えて帰ってきて、どんな質疑があったかで盛り上がる。それが終わるとまた、重い空気に戻る。この繰り返しだった。
試験官からの質問内容としては、バイトさんがした一番大きな失敗とその処置は?とか、これまでの勤務で企業理念が体現されているのを感じた瞬間は?というように、しっかりと考えて仕事をしてきたかどうかを問われるものが多かった。
日頃の仕事を頑張ってきたつもりではあったが、経験値や深く考えて企業理念を具現しようという姿勢がまったく足りていなかったことを思い知った。
面接を終えた受験者から、「試験官からこんな質問があった」という情報を聞き、「自分の経験してきたことを探って、質疑に備える、というその場しのぎの準備」をせざるを得なかったからだ。
わたしの前後の受験者とは、もともと、お互い顔と名前は一致するという程度の顔見知りであったが、こういうときは妙な結束感や親近感を持つもので、いつのまにか、頑張りましょう!とお互いを励まし合っていた。
受験者が一人、また一人と面接試験を終え、開始後3時間の待ち時間を経てわたしの番が回って来た。
それまで、程よい緊張感という程度の緊張を感じていたが、控室を出て試験会場入り口に来る頃には、心臓の音を感じるほどのものになっている。
ここで慌てても仕方ない。
一呼吸おいてそのまま部屋に入る。
試験官は6名、試験管理サイド6名、受験者1名という具合で、アウェー感がすごい。
今思えば、このアウェー感を吹き飛ばすだけの迫力が必要だったのに。
試験は、始まってしまうとあっと言う間だった。
準備してきたものを出す、質問にはこれまでやってきた経験から答える。
ありのままの自分を、人前でさらけ出す。
こんな経験はなかなかできるものではない。
面接試験という場で、合格するために一生懸命準備してきたからこそ、面接試験が楽しかったし、受かりたいけど落ちてもいいや、とすら思っていた。
自分をさらけ出すのも気持ちよかった。
そんな自分を、時間をかけて受け止めてくれる会社や試験官(会社がまだ大きくなり切っておらず、全員顔見知り)への感謝しかなかった。
緊張し、受かるためにプレゼンしつつも、そんな気持ちを抱いていた。
面接では、自分が頭に叩き込んだセリフは、出てきにくいところもあったけれど、言いたいことはすべて言ったし、質問にも問題なく対応できた。
面接が終わって思ったのは、多分不合格だろうし、自分はまだ店長になってはいけないかもな、ということだった。
圧倒的に自信がなさすぎるのである。
自信とは、成功・失敗の体験によって培われるものだと思うけれど、この体験が圧倒的に不足している。
わたし個人としての成功、失敗はあるが、店舗と自分や同僚と自分、といった関係性の中での成功、失敗というものがあまりにもなかった(これを意識して仕事をしていなかった)。
経験がないので、というのは逃げでしかないかもしれない。
ただ、経験がなかったというのは、そういう意味ではなく、もっと「学ぶ姿勢」ではなく、「自ら作り出す姿勢」で仕事をしべきだったということである。
最後の受験者の面接が終わると、またしばらく待った後、合格発表と試験班長の総括があった。
一人ひとり合格者の名前が呼ばれ、同じ会場の別の位置に移動するように指示された。
名前が読み上げられると、拍手とともに移動する。
一人、また一人。
何人の合格者枠があるかを知らされていない受験者は、自分の名前が呼ばれることを期待していただろう。
もちろんわたしもそうだった。
しかし、最後の一人が読み上げられるまで、わたしの名前はなかった。
予想通りの不合格。
やりきったことが気持ちよく、落ちてもいいや、とすら思っていたはずなのに、いざ合格者を見て、自分が不合格者側にいることを改めて意識すると、さすがに悔しかったが、涙は出なかった。
やりきった感と疲れ切っていたのかもしれない。
試験班長からは、
「繁盛店のトップとしての店長の職務は本当に重い。業界でNo1クラスの給料を払っているのには、それなりの理由がある。今回は、その重みに耐えられるかどうかを試験で見させてもらった。残念ながら不合格になった受験者の皆さんには、精進してもらって、次に期待する」と総括された。
重みに耐えられるかどうか。
この言葉が一番響いた。
今の自分では、重みに耐えられないだろうことは、自分が一番よくわかっていた。
総括が終わり、受験会場を後にする不合格者を、出口で各マネージャー(店長の上司)が拾ってアドバイスする。
わたしが言われたのは、「ペーパーもプレゼンも、とてもうまくて合格圏内。ただ、将来的に、どんな店にしたいのかという具体的な像がちょっと伝わってこなかったかな。あと、入社して半年ではなかなか難しいかもしれないけれど、日ごろの部下指導力や対人影響力といったところの評価が少し低かったね」ということだ。(こういうときの、少し低かった、はかなり低かったということだろう)
※ちょっとまって、ちょっとまってお兄さん!日頃の評価点はあなた権限でしょ!!(爆)
要は、ペーパーもプレゼンも、うまさはあるけど、ハートがないということなのだろう。
自覚していたにもかかわらず、向き合わず、うまくこなそうとしたところを見透かされ、しかも、図星で言い当てられた。
悔しさより、清々しさが大きいというのはこういうことだ。
一生懸命頑張って来たからこそ、試験で自分の弱さが分かった。
結果、不合格だったけれど、その弱さを見事に見透かされ、また、自分に足りないものを自覚できた。
これで十分だ。
言い訳じみて聞こえるかもしれないけれど、とても考えさせられる経験ができてよかったと言いたい。
たまたま受かっていたとしたら、なんとなく受かっちゃいましたって記事を書いていたことだろうと思う。
店長試験をきっかけにして、もう一度考え直そう。
本当に店長になりたいの?
店長になったらどういう店にしたいの?
お客さんとの関係は?
笑顔とか喜びってどういうこと?
それを作った時の自分の心の動きは?
「ハートの足りない君はまだ、店長職の重みには耐えられない」という当然の判断をいただいた。
わたしが試験官だったとしても、わたしのような受験者を見てこのように言うだろう。
もう一度、振出しに戻って、考え直そう。そして行動しよう。
あとは、「どういう志を持つか」というところを明確に、かつ、具体的にして行動することだ。
大人もそんなに楽じゃない。という不都合な真実に、最近改めて気づかされた一日だった。