めんおうブログ

主夫ライターの日々と、よりよく生きるためのちょっとしたコツなど。

マニュアルよりも、思いやりのある接客を求めれられる。翻って、私生活では・・・(転職後31日目)

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わたしの勤める会社の方針には、マニュアルによる接客を重視しない、というものがあります。これについて感じたことを記録したいと思います。

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本日の業務内容

【1月31日】

0700起床

0730~0840出勤

0900~1100仕込み

1100~1600ホール(当初、材料受領)

1600~1630休憩

1630~1900ホール

1930~2030帰宅

0100就寝予定

感じたこと

わたしの勤める会社では、マニュアル接客が重視されていない、というより、接客に関するマニュアルがあるかどうかも不明である(ベンチャー企業なので、整備不十分なだけかもしれない)。わたしは働き始めて1か月になるが、マニュアルを見たこともないし、店長から聞いたこともない。今日は店のバイト歴3年の女子大生に、マニュアルを見たことがあるかを聞いたが、見たことない、とのことだったので、おそらくないのだろう。

 

マニュアルがなければ、どのような接客を求められているのか、というとお客様に対する「思いやり」のある接客である。店長はいつもお客様がどうしてほしいのか、についてを考えているし、わたしの接客について指導があるとしたら、思いやりが足りていない、と評価された時である。

 

マニュアルを重視しない、という方向性には大賛成であるが、マニュアルがない、ということであれば、考え物であると思う。広い地域、幅広い人に受け入れられるサービスを提供するためには、ある一定の基準が必要だからである。接客要領だけでなく、「これを読めばラーメンの仕込みから料理ができる」というようなマニュアルもない。わが企業は、個人店でなく、チェーン店で、外国人、若い人から中年の人まで従業員がいる。こういう観点からも、拠り所となる業務マニュアルがあってしかるべきだろう。

 

接客、とは、本来直接お客様とやり取りすること以外の、ラーメンの調理、皿洗い、野菜を切る作業、冷蔵庫に材料を詰める作業など全部を含めると思うが、論点を明確にするために、以降、お客様との直接のやり取り、という部分に焦点を当てたい。

 

 

 

 

 

さて、思いやりのある接客についてであるが、マニュアルがあろうと、なかろうと、思いやりのある接客は極めて重要である。マニュアルがあったとしも、そのマニュアルは、思いやりのある接客を突き詰めて、いきついた先、万人に受け入れられやすい思いやりの集大成、という形になるはずだからである。

 

 

 

わたしは、店長から常々、思いやりのある接客を求められているわけであるが、例えば以下のような指導を受けたことがある。

 

お冷をお客様が席についてすぐに提供する(お客様に席を立って水を取りに行かせない)

複数人で来られたお客様のラーメンを同じタイミングで提供する(硬さなどが違えば、麺のゆで時間も異なるため、提供するタイミングを一緒にするのは難しいが、それを同じにする)

一見わがままなお客様の要望にもできる限り沿うようにする

ラーメンを提供する際、お客様が帰られる際、ライスのおかわりを提供する際などに、どのような一言を添えるかを考える

 

といったことである。

 

 

 

良質なサービスを受け慣れている我々日本人であれば、「当たり前のこと」と思われるかもしれない。わたしもそう思っていた。しかし、これを提供する側になると見え方が変わってくるものである。上に例として挙げた事項を実践するだけでもなかなか難しい。特に、一番下の事項は結構ハイレベルである。例えば、有名な某ハンバーガーショップなどでは、ハンバーガー購入の際、どこの店舗でも同じように注文を取られ、レジの横で待たされ、順番が来れば同じように提供されるだろう(これが悪いと言っているわけではない)。わたしの勤める会社、店では、これが許されないのである。

 

わたしは、先日まで、店長から「ATM接客」をやめなさい、と指導されていた。確かに言われる通り、同じように接客していると、接客している自分ですら白々しく感じるから不思議なものである。ATM接客では感動を呼ばないわけである。感動とは、期待以上のものを提供された時に生まれるものである。感動を呼ぶサービスを提供してリピーターになっていただくには、お客様が期待する以上のことを提供する必要がある。

 

ここ1週間で、お客様に伝わりやすい言葉遣い、抑揚、手ぶりなどを使うことで、ATM接客からはもう卒業だね、という評価を店長から受けたし、お客様のしぐさを見れば、店側にどうしてほしいと思っているのかがわかるようになってきた。つまり、思いやりのある接客ができるようになりつつあるのである。例えば、おかわりください、と少し離れた厨房にいる店員に声を出しにくいお客様が多いが、このような場合は、茶碗をもって厨房側に顔を向けるお客様が多い。また、席につく際に、コートを脱ぎながら足元を見るお客様は、荷物かごを求めている、といった具合である。このしぐさなどから求めているものを先回りして提供する、ということが小さな感動を呼ぶ。この積み重ねが期待以上のサービスになるのである。これが少しずつできるようになってきたのである。

 

店長にATM接客卒業、とほめられた時はもちろんであるが、お客様からありがとう、と言われることが多くなってきたこともあり、正直、自分もこの1か月で成長したなぁ、と思ったこともあった。

 

 

 

しかし、そう思った瞬間、疑問が頭に浮かんだ。待てよ、家に帰ってからも同じように家族に対して思いやりのある言動を実践できているか、と。子供がわけもなく泣いているとき、うるさいなぁ、と思ってしまう。風呂から出て着替えるのに時間がかかるとき、早く着替えてほしいなぁ、とイライラしてしまう・・・言葉に出ていなくても、表情や態度には出ているだろうし、言葉に出してしまっていることもあるだろう。どうして酔っぱらったお客様や無理難題を言ってくるお客様には、その要望に沿うように努力できるのに、家族にはそのような姿勢が足りないのだろう。このような疑問頭に浮かんだのである。

 

この疑問に対する答えは、実はもう出ている。「家族が当たり前の存在になりすぎている」ということである。わたしは、転職を検討する際に、今後の人生を通してサービスの対象であるお客様を「食」を通して幸せにする仕事をしたい、という思いで仕事を決めた。仕事、お客様に対する自分の姿勢やあり方を長い時間と労力(集中力)をかけて、本気で考え、答えを出したのである。果たして家族に対しても、同じように考えただろうか。自分がどのような夫でありたいか、父親でありたいか、実家ではどのような長男でありたいか、どのような義理の息子でありたいか・・・ということについて。

 

認めたくはないが、圧倒的に不十分であろう。考えているつもりで、実は少しも考えていないのかもしれない。これまでの人生では、親に育ててもらうのが当たり前、という環境で生きてきて、結婚してからは、妻や子供、両親、義理の両親がいるのが当たり前になった。今の自分は、どういう夫、父親、長男、義理の息子でありたいか、という決意のもとにある自分ではなく、親に育ててもらうのが当たり前のころの自分の延長線上で漂っているだけの自分に過ぎないのではなかろうか。仕事以外の部分での生き方を真剣に、自分なりに考えて答えを出したとしても、過去の自分の延長線上にあることは否定できないし、否定する必要もない。今、将来の自分、というものは過去とのつながりを完全に断ち切ることはできないわけで、延長線上にあらざるを得ない。しかし、自分のありたい軸、方向性を決めてそのように生きることはできる。自分でどうありたいかを考え、決めて、実践する、ということは、これまでの延長線上で漂うのとは違い、自分で決めた方向に進むことなのである。

 

仕事は自分で選ぶ必要がある、という特性があり、どのように仕事に向き合うかについて考える機会がたくさんあるが、家族に対しては、そのような機会があまりない。わたしは、店長からの業務上の指導を受けて、これを考える機会を得た。どのような夫でありたいか、父親でありたいか、実家ではどのような長男でありたいか、どのような義理の息子でありたいか・・・ということについて考え、答えを出したい。どのような答えであっても、思いやりのある言動を実践していく方向性に間違いはないだろう。時間と労力を惜しむことなく、真剣に家族のことを考えたい。これが家族に対する思いやりの第一歩なのかもしれない。仕事に対してできたのだから、家族に対してだってできるはずだ。