めんおうブログ

主夫ライターの日々と、よりよく生きるためのちょっとしたコツなど。

人生の残り時間について考えたら、「今」の大切さについて再確認できた。(転職後39日目)

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息子の発言から考えたことについて記録したいと思います。

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本日の業務内容

【2月8日】

0645起床

0715~0815出勤

0830~1130仕込み、ホール

1130~1200休憩

1200~1800ホール

1830~1945帰宅

0100就寝予定(いつも0130ごろになってしまう・・・)

感じたこと

今日は、早めの帰宅であった。早く帰った日は、わたしが子供の風呂と歯磨きをすることが暗黙のルールになっている。「きっと、近い将来店長になったら家にいる時間なんてないくらい忙しくなるんだから」と妻にも言われている。わたしなりに、できる限り子供との時間を作ったり、一緒にいる時間は肌で触れ合ったり、心が通うように努力しているつもりなのである。

 

 

 

いつものように、わたしが子供の歯磨きまで終わらせたら、妻が絵本を一人に一冊読み、寝かしつけに入る。その間、わたしは一人で居間で本を読んだり、ネットをしたりするのが「おきまりのパターン」であり、毎日の心が一番落ち着く時間である。これが楽しみで一日頑張れる、といってもいい。(ありがたい)

 

子供と一緒に風呂に入り体も心もぽかぽかになり、一日の仕事が終わった程よい疲労感を感じつつ、居間でコーヒーを飲みながら最近あったことや、気になったことを振り返ると、息子の最近の発言を思い出した。

 

 

 

息子はもうすぐ4歳になる。最近、ようやく一人でうんちがきるようになったし、服の脱ぎ着や、本読みや数かぞえもある程度でき、会話も十分成り立つ理解力が備わってきた。また、跳んだり、走ったりも活発で、本当に成長著しい。その息子は、たまに、ふと思い出したように、わたしや妻でも忘れていたことや知らなかったことを言うことがある。最近のそれは、義理の祖父の死についてのことだ。

 

義理の祖父は、息子にとっての曾祖父にあたるが、去年の秋ごろ亡くなった。この時のイメージを思い出してのことだろうが、息子の「大じぃじは、「い」で燃やされたんだよね」という発言には驚いた。これは、祖父の火葬に家族で同行した際、火葬場に番号のように「い、ろ、は」が振られていて、その「い」を使って火葬したという事実に基づく発言である。わたしは、そもそも「い、ろ、は」が振られていたことすら知らなかった。聞くところによると、火葬場の壁に表札が掲示されていたそうだ。なんとなく薄暗く、辛気臭い、義理の祖母と父が肩を寄せ合って悲しげな雰囲気があった、という記憶があるくらいである。

 

 

 

この発言に始まり、息子は「大じぃじは何で死んじゃったの?」という質問をしてきた。寿命だよ、と答えると、「寿命って何?」と質問を返し、人はずっとは生きられないんだよ、と答えると「何で?」と返す。

 

とうの昔に同じような疑問の解決をあきらめた子供時代があることすら忘れていたわたしは、息子に対する驚きと、自分にもそんな時代があったなと懐かしい気持ちでいっぱいになった。大人が考えるのをやめたことにまで思考が及ぶ子供は、知的好奇心のかたまりだな、などとも思いつつ、わたしも考えたことがある。

 

 

 

 

 

それは、人生あと50年、実際どのくらいの時間があるのだろうか、ということである。

 

 

 

 

 

わたしは最近転職し、人生の先々のことについても考えることが多くなったし、妻に対する感謝の気持ちも強くなった。妻に知られないように、寝顔や試験勉強を頑張っている顔を見ることがよくある。妻に知られないように顔を見る、ということについて、この記事を読んでいただいている方には「キモい」と思われるかもしれないが、これは、妻や子供との今の時間や空気を大切にしたい、という思いが前よりも強くなったからだと思う。いつか一緒にいられなくなるのだから、しっかり目に焼き付けておきたい、という気持ちが強くなったようだ。(長い時間じろじろ見てるわけじゃないですよ。子供の寝顔とか見ますよね?そういう感覚だと思います)

 

 

 

長期的には、人生通してこう生きていきたい、こういう人でありたい、というふうに考えたことはあるし、短期的には、一年、一カ月というスパンで目標を立てたり、時間を計算して一日何時間勉強する、というように目標を達成するための計画を立てたりしたことだってある。

 

しかし、時間の使い方を考えるときに、「人生(命)があと何時間あるのか」については考えたことがなかった、ということに気づいたのである。わたしはもうすぐ32歳で、人からよく「30なのに、普通そんな先のことまで考えないよぉ」と言われる。ちょっと周りとずれてるのかな、と思いつつも、考えてしまうもの、気になってしまうものは仕方がない。考えないわけにはいかないのである。

 

 

 

わたしは計算してみることにした。

 

 

 

家系の寿命を考慮して、人生80年とすると、あと約48年である。1年365日、1日24時間を単純に掛け合わせると、あと48年は、420,480時間になる。

 

数字だけ見ると、とても長く感じるが、実際どうなのだろうか。家族と一緒にいられる時間を知りたいので、一緒にいられいない時間を計算してみる。仮に、今の状況がずっと続くとすると、0700~2000までは家にいない、妻は夜勉強するので一緒にいるが、子供が寝るのは2100である。ということは、仕事の日は、家族そろって過ごせる時間は、2000~2100の1日1時間しかない、ということになる。仕事が休みの日は睡眠時間以外一緒にいるとすると、1日16時間いられれる。1か月88時間、1年で1,056時間である。一方、仕事は1日13時間なので、1か月で312時間、1年で3,744時間という計算になる。

 

残りの人生を考えてみる。それぞれ、48年だと(60歳で仕事を引退して、今の休日と同じだけ家族と一緒にいる、とする)・・・

 

家族と一緒にいられる時間:104,448時間

仕事:125,952時間

 

20%も仕事にかける時間の方が多い計算になる。しかも、将来的に仕事が今よりもずっと忙しくなることや、子供たちも親離れしていくこと、妻も仕事を始めることなどを考えると、家族と一緒にいられる時間はこの計算よりもずっと少なくなるだろう。感覚的に半分以下になるだろうと思う。仕事は仕事で大切であるし、とてもやりがいがある。だから、それはそれでいいが、具体的に計算してみると、家族と一緒にいる時間があまりにも少ないことに驚いた。こう考えると、自分のやりたいことよりも、家族との時間を優先しなければ、と思えるし、家族と一緒の時間を濃いものにしようと思えるようになる。

 

 

 

残りの人生に残された時間を具体的に計算してみると、「時間とは、すなわち命である」ことに気づく。「どのように時間を使うか」ということは、「どのように命を使うか」ということなのである。あっという間に時間が過ぎた、とか、一年あっという間だね、なんてお決まりのように言うし、わたしも言ってきた。これ自体がわるいわけではないが、もっと時間の使い方、すなわち、命の使い方を考えて、今を大切にしたいと思った。どうせ今、同じ時間を過ごし、命を燃やすなら、今を自分だけのためではなくて、人の役にも立てたいし、強く感動したいし、考えて納得したいと強く思う。今の積み重ねが、人生になる。そして、今燃えている命は、今にしかないのだから。